駆け抜けて行く日々               

  一月中ごろから三月中句まで、短納期の仕事が多く、初めは良かったのだが 、このごろになって、疲れきってしまった。  私は、看板屋で生計を立てている。
不況の折から顧客を確保したいため、無理な納期の仕事も引き受けざるをえず、かえって忙しい日々を送っている。
 このごろ、疲労がたまって筋肉痛がひどく、仕事は思うようにできなくて、いらいらすることが多い。体の動きが鈍くなって、跨いだつもりの物につまづい たり、避けたつもりの物にぶつかったり、まるで数年先の老いを先取りして体験しているような気がする。
 夜業のあと、寝床に入っても寝付けないと辛いので、寝酒を少し飲んで、テレビを見たり、本を読んだりして仕事の緊張をほぐずことにしている。
 先日、トラベルミステリーをテレビで見ていて、あまりの粗末さに腹をたててしまった。
 交通磯関の時刻表を使ったアリバイ崩しはもう、トリックとはいえない。その上、素人の私でさえ真相の見通せる事件が続いて、最後にどんでん返しがあるのかと思ったら、犯人の告自と自殺で終わりであった。
 むかむかしなから寝床に入ろうとすると、妻が本を読んでいた。
 電灯のスイッチには、寝たままでは手がとどかないので、私が消灯するか、 妻が自分で読書を終わってから消灯するかを聞くのが習慣になっている。
「電気は、自分で消すかい?」
「スタンドを持ってきて、電灯は消して」
 妻は、自分の体温でほどよく温まった寝床を、ちょっとでも出たくないという顔つきである。
 その顔がおうちやくそうに見えて、おもわず悪態が日をついて出た、
 「うるさい、くそばばあ」  いい終わらぬ内に、 「しまった、喧嘩を売るつもりではなかった」  と、頭を抱えてしまった。
 妻が一瞬ポカンとした後、笑い出したので家庭争議だけは免れた。
 その夜から強い風が吹いた。
 次の日、昼前に得意先のグリーニングの会社から、
「取り次ぎ店から『看板が落ちそうになって危ない』そうだから至急行って見てくれ」
  と、電話があった。
 その店は、私のところから二キロたらずの距離である。
 脱サラして、この仕事を始めてまもなくのころに支柱を立てて、看板をつけたのであるから、二十年か二十一年になるはずである。支柱はそのままで、看板を一度、取り替えたのだがその時、その店の女主人に、
「看板なんか、要らない」
 と、いわれて困ったことを思い出した。会社からの注文で行ったのに、取り次ぎ店でいらないと言われても困るのである。そんなことを思い出しながら、 現場について見ると、支柱が根元から析れ曲がっていた。道路の反対側、一部が店になっている家の、下屋(げや)の上に支柱が看板を乗せたままで倒れかかっている。
 支柱を押してみたり、揺さぶってみたりして、すぐには危険がないことを確かめてから下屋の上に登り、母屋の軒と店のテント看板の鉄枠、反対側の街灯の支柱と、三箇所からロープを引っ張って着板の支柱を屋根の上でしっかりと縛った。
 店の女主人に、 「風が止んでから、取り外しに来ます」
 と、約束して帰ってきた。
 翌朝目が覚めると、外には雪が積もっていた。一日じゅう降り続き、テレビのニュースでは四十何年ぶりの大雪ということであった。
 さらにその次の日は、天気は回復したが、積もった雪のために作業ができる状態ではなかった。
 昼前に得意先の会社から電話がかかってきた。
「『心配で夜も眠れない。事故が起きたら責任をとってくれるか』と言ってきた。何とかならないか」
 と、いう。
「責任なんて私にはありませんよ。二十年もほったらかしておいて、危なくなってから責任をとれなんて、冗談じやない。こんな時の作業は命懸けですよ」
 いつにない私の剣幕に、
「応急手当をしてもらったのだから、このまま様子を見よう」
 と、言って得意先は電話を切った。
 腹の虫がおさまらず、取り次ぎ店へ文句をういつもりで行った。まず看板の状態を確かめていると、女主人が出てきた。
「いますぐ外してくれますか」
 と、いう彼女に、
「足元にも屋根にも、こんなに雪があっては危険で作業が出来ないのです。明日になれば雪が消えるでしょう」
 と私が言うと、
「心配でたまらない、直ぐにやってください」
 と、しわの目立つ顔を引き吊らせ、詰め寄ってくる彼女に、
「ひと様に怪我をさせたら大変だと、おっしやいますが、私が怪我をしてもお困りでしょう」
 というと、さすがに何もいえない。
「私も無責任に放っておくわけではありません。毎日朝と夕方見に来て、安全を確かめているのですから、安心していて下さい」  しぶしぶながら、納得したようすだったのでその日は、そのまま帰った。
 次の日も強い風が吹いた。更にその次の朝は、風も静かだったので、看板を支柱ごと撤去した。作業時間およそ四十五分だった。
 本当に差し迫った危険がある場合なら、クレーンを借りてくればすぐにもできたのだが、費用がかかるのである。店の女主人が払うはずもないし、会社に請求しても認めてはもらえまい。なだめながら引き延ばした六日間だったが、あの女主人のヒステリックな我侭には、腹の立て通しだった。
 いまだに、一本調子のかんだかい声が聞こえるような気がする。
 一月以来、納期の短い仕事ばかりが続き、体を休める暇も無かった。お陰でいつもは長く感じられる冬が、あっというまに過ぎてしまった。
 梅の花がすっかり咲きそろい、麦の葉が伸びだして、畑の黒土の縞がみるみる狭くなってきた。爛漫の春も近いことだし、気分を変えて、郊外を歩いてみよう。
  たまゆらの憩やぬるき春矩燵                     幽                                                         
                  平成六年三月二十日