　　　咳払い

　物心ついてから、私は絶えず咳払いをしていたように思う。

　母は、私が数え年３歳のときにジフテリヤに罹って死に掛かった時の後遺症だと思っていたらしい。

　中学生だったころ父に、

　「えへんえへんって、何を威張りくさっている」

　と怒鳴られて、心底から怒り狂った。

　いったん言葉に出して爆発させたら、止めどなくなってしまう。私は身を振るわせながら黙り込んだ。

　校医にも相談したことがあったが、ツベルクリン反応について確かめると、それ以上は相手にしてくれなかった。

成人してからも機会あるたびに医師に相談してみたが、痰を軟らかくする薬か、気管を広げる薬をくれるだけで、それもまったく効き目がなかった。

６４歳のときだった。インフルエンザで寝込んだ。

起きているときはいいのだが、寝床に入って、少し体が温まると咳が出て止まらなくなり、体中汗でびっしょりになってしまう。

５日間一睡もできなかった。医師に訴えて、薬を何度変えてもらっても咳は止まらなかった。

自分で考えて、敷布団の下に畳んだ布団を置き、寄りかかって上体を４５度くらい起こして寝ると咳が治まって、眠れるようになった。

その後も痰が絡み、苦しいことが多く、痰を軟らかくする薬や、気管を広げる薬をもらったが、まったく効果がなかった。

去年６７歳になる直前、新聞の囲み記事で、

「喘息の症状が見逃されて、見当違いの治療をしている場合が多い」

と書かれていたのを読んだ。

私の場合もそうなのかもしれない思った。

私の場合痰は喉ではなくもっと奥の、喉と鳩尾の中間にあって少しくらいの咳払いでは取れないので、気管か気管支の炎症に違いないと思ったのであった。

医師に説明してもなかなか分かってもらえず、胸を叩いて、

「ここなんです。喉ではないのです」

と、もどかしい思いで訴えて、ようやく喘息の薬もらえることになった。

これで物心付いてからずっと苦しめられてきた痰から救われるかもしれないと、心弾む思いだった。

調子の良いときには、日中は忘れているくらいだがこの何年かは寝る前に、気管から奥へ、肺の中まで吸い込んでしまいそうで、寝つきが悪く、その上前立腺肥大のため２回はトイレに起きるので、慢性的な寝不足になっている。

薬が効いて少しずつでも良いほうに向かうものと、大きな期待を持っていたのだが、思ったほどでもない。

６０以上も続いてきた、頑固な痰である。一朝一夕に良くなるとも思えないので、我慢して薬を飲み続けて、１５箇月になった。

隣の勤務医の奥さんにぼやくと、

「医者を変えてみたらどうですか」

という。

お隣さんは、ある病院に勤めている医師である。奥さんの話では、夫の医師自身もお子さんも喘息で、近くの病院へ通っている。喘息はその先生の得意分野だと思うということだった。

お隣さんのｈｐを見ると、彼のかかっている医師のことを、

「最も尊敬し信頼できる先輩」

と、紹介しその病院のｈｐとリンクされていた。

私はそのｈｐを見てそこへ行くことにした。

１５個月飲み続けた薬が効いているという実感がないことを訴えると、

「胃が悪いために喘息の症状が出ることがあるので、胃カメラを飲んでみてください」

というので、『来週の月曜日』と日を予約した。

そういわれてみると、前の先生にもそういう場合があるという説明を受けたことがあった。

もっと早く前の先生に訴えて別の治療をしてもらうべきだった。近くに住んでいて、これからも顔を合わせる機会もあるだろうに、早まったなという反省もあるが、新しい治療でこの痰とお別れできれば、どんなに有難いか、明日はその胃カメラの日である。

平成１５年１１月９日

平成１５年１１月１０日、胃カメラを飲んだ。

生まれて初めてであった。

苦しいものと聞いていたが、さほどではなかった。

モニターに移った自分の胃を見ながら説明を聞いた。

掻き壊したような赤い筋がいくつも見えた。それが胃炎の症状ということだった。

胃のいり口のところが緩んでいるということもわかった。

胃液の逆流による刺激のため痰が絡んだり、喘息に似た症状が起きるのだという診断だった。

胃の薬は寝る前に一錠だけ。胃液の過多を押さえるためということだった。

食べ物についても、食べ過ぎないこと、寝酒だけはやめたほうがいい、ということだった。

いわれてみれば、思い当たることが多い。

午前１１時頃と午後５時頃猛烈な空腹を感じることがあった。体が震え、額やわきの下に汗が出る。それがいやでつい食べ過ぎる。

あの空腹感というか飢餓感は、健康なそれとは違う。今までどうしてそれに気が付かなかったのだろう。

その後は食事を少なくして、例の空腹感が来そうなときにはお茶を飲んだり、消化のよさそうなものを少しだけ食べるようにしている。

このごろは、食事の量が半分くらいになり、まだ半月ばかりなのに１．５キロ体重が減った。

食事の量が減ったのに、胃の中にいつまでも物が残っているような気がして、先生に相談してみたが、様子を見ようということになった。

前立腺肥大の薬も２種類もらっていたのが朝１錠だけになって冗談に、

「腹の足しになるほどの量」

といっていた薬も１日２錠になった。

まだ痰も絡むし、咳払いもしているが、心なし楽になった。

酒飲みは意地汚いもので、まだ寝酒に未練はあるが、我慢して胃を大切にさえしていれば確実にこの咳払いから開放されるだろう。

来年の今頃「咳払い」が昔話になっていそうな気がする。

平成１５年１１月２８日